2008年11月21日 21:31
終の章: Voe Victis!
電話犯罪の全容は明らかになったはずです。少なくとも、私の知り得る限りは全て述べました。日米で警察による裏付調査が行われていると信じます。こうした捜査は時間の掛かるものですし、途中経過がメディア報道されることはありません。しかし一方で、果たして自分の思惑通りに物事が進展しているのか、という不安があります。更には、バカ木の愚行から生じた電話犯罪の被害に遭ってしまい、半生を台無しにされてしまったという不満が心の中に鬱積していました。「自分がどれだけ酷い目に遭ったか」という主張をしましたが、一方では、電話犯罪がなければ現在の自分は存在しません。ただし、こうした忌々しい過去を正当化するつもりはありません。不条理の中で苦しむことが「良い思い」ではないからです。しかし、不条理を生きるには哲学的になる必要があります。順風満帆の人生では見えないものが存在します。米国で数学教授として成功したはずである、と序の章で述べましたが、成功していたならばフランス文学に触れることはなかったはずであり、英語力も向上しなかったはずです。ちなみに、帰国後は語学力で生き残るために努力を積んだ訳ですが、お陰で大卒アメリカ人の平均を遥かに上回る英語力を身に着けることが出来ました。また、フランス語を趣味として勉強するようになり、帰国時と比べても実力は確実に向上しています。英語と同等のレベルにすることが目標です。そして、こうした「不幸中の幸運」の中でも、特に幸運であったのは、シャール・ボードレール(Charles Baudelaire)という19世紀フランスで活躍した詩人と出会えたことでした。
日本でも良く知られている詩人なのですが、その真髄を知るには原語で読まなければなりません。最も有名な作品が”Les Fleurs du Mal”という表題の詩集です。日本語翻訳では「悪の華」などと訳されているようですが、全くの誤訳です。ボードレールの詩は意味論的に複雑となっています。使用する単語の一つ一つが持つ多様な意味を抽象的に組み合わせているため、意味の流れが万華鏡のように変化します。音韻的にも優れています。こうした芸術作品を日本語に翻訳することは不可能です。ボードレールの詩には、芸術と哲学が同居していますが、日本の伝統的な詩歌では、読み手の心と自然との調和が一般的です。何等かのイメージを彷彿させる作品を目指しているようです。
数年前から毎朝20分から30分ほどボードレールの作品を読むようにしているのですが、読めば読むほど日本語翻訳は不可能という認識が強くなります。そうした中、不思議な詩的体験をしました。眠っている中に勝手に短歌が頭の中で出来てしまったのです。それは小泉前首相が、政権終了前の8月15日に靖国神社参拝を行った際に起こった出来事です。以前から同首相には注目していたのですが、それまでに同氏に対して抱いていたイメージが一気に沸き上がったのかもしれません。以下、勝手に出来てしまった短歌を披露します。
靖国の
想い積もりぬ
八十五
止めぞ振り抜くは
小泉の恋
靖国とは「セイコク」と発音し、国家を安泰にすることを意味します。靖国神社での靖国は「ヤスクニ」と発音します。周知のように、国の安泰に殉じた人達の霊を合祀してあります。「靖国の想い」とは、小泉元首相が何回も言ったように、そうした方々に哀悼の念を表したい、そのために靖国神社に参拝したい、といった想いと同時に、自らも国の安泰に尽くしたいという想いが重なっています。それは政治家の態度を外的に自ら定義するものであり、政治活動の基本となっています。周囲の反対を押し切って郵政民営化を行ったのも、こうした「靖国の想い」からであり、それは「靖国神社参拝」という形で象徴されています。「国民のためにやってあげたい」あるいは「国のために命を投げ出した方々に哀悼の念を表したい」という「想い」は、この「靖国の想い」と同義となっています。ここで重要なのは、それが靖国神社でなければならないというところです。これは、12世紀にフランスで発明されたとされる「恋」という概念と一致します。そうした想いが積もり積もって八十五まで達してしまった、と解釈しても良いですし、一方では八十五を8月15日の終戦記念日と考えて、その日に是非とも参拝したいと思っている、と解釈しても良いでしょう。しかし、やらないように進言されます。それは、8月15日の参拝以外にも、郵政民営化をするために衆議院解散をしないで欲しい、という要請も意味します。「振り抜く」には、恋に駆られた若者を「止めるが振り切り」という意味と、政治家にとっての伝家の宝刀としての靖国神社参拝から由来する、すなわち、この宝刀を「止めぞ振り抜く」、更には、衆議院解散という伝家の宝刀を「止めぞ振り抜く」、という意味が込められています。語呂合わせとして「小泉の恋」としましたが、こうしたドタバタが実は「恋愛」のドタバタと同じようなものである、という皮肉も込めてあります。
この短歌が出来上がった後、不思議な現象が生じました。もう1つの短歌が勝手に出来てしまったのです。それは、靖国神社を首相として8月15日に参拝したもう1人の中曽根前首相に関するものです。
靖国の
想い積もりぬ
八十五
勇み振り抜くは
恋の中曽根
ここで注目したいのは、中曽根前首相が首相就任後の1985年に参拝したことです。大変な外圧が加わり、それ以降は任期が終了するまで参拝が一切出来なくなりました。就任して初めての8月15日に「勇んで」参拝して「勇み足」となってしまった中曽根氏は、まさに恋愛中だったのでしょう。そして、その甲斐あって国鉄の民営化に成功し、首相として名前を残しました。近年の日本の首相では、小泉氏と中曽根氏が東西の二大横綱であり、その2人に関して、このような短歌を詠めることは偶然とは思えません。
これら二首の短歌は、ボードレールを毎日欠かさず読む日常生活の中から自然に発生したものです。一つ一つの単語に複数の意味を持たせる手法は、ボードレールから会得したものです。ボードレールの詩歌は日本語翻訳不可能ですが、日本語でボードレール風味の短歌を詠むことは可能です。日本人フランス文学者が書いたボードレールの解説書など読む必要はありません。ボードレールを知りたければ原書で読むか、もしくは、このような詩歌を自ら日本語で詠んでみることです。
さて、本章の表題である”Voe Victis!”ですが、ボードレールの書いた随筆から引用したものです。”CONSEILS AUX JEUNES LITTERQTEURS” (若き文士への助言) という表題で、ブルジュア社会にあって、如何に流行に流されることなく、文士として成長するかを説いたものです。ブルジュア的流行に対処するには、新しい視点で各々の流行要素に注目し、それらに対応して独自の方向に進むための推進力を持ち、それらの調合量を何倍にもして流行全体と同等の濃度にすれば、ブルジュアの悪口を言う権利を持たなくなるに至ると説いています。そうすることにより、ブルジュアが自分と共に在るようになるからです。すなわち、ブルジュアとの構成要素の割合は同等でも、その一つ一つは独自のものとすることです。そして、以下のように締めくくります。
Jusque-là, voe victis ! car rien n’est vrai que la force, qui est la justice suprême.
(そこに至るまで、voe victis ! 何故なら、「力」(force) ほど真なるものは存在しないからであり、その力こそが最高の「正しさ」(justice) であるからだ。)
これは随筆の第一章の締め括りで、それ以降は文士としての具体的な問題について説いています。この冒頭の部分では抽象的表現が多用されており、文士以外の者にも共通するものとなっています。現代社会において如何に創造的に生きていくかのヒントが汲み取れます。私の場合には、電話犯罪により嘘の概念が「流行」してしまい、数学教授として社会的に成功しませんでした。何とか本来の自分に相応しい状態にしたいと願って努力してきたのですが、何とか電話犯罪を止めようと、バージニア工科大学に復学願いを出したところ、例の銃乱射事件が発生しました。一連の乱射事件が発生して後、佐世保乱射事件となり、これを機に日本国内で電話犯罪解決を目指すことになった訳です。この随筆でボードレールは、当時のフランス文学界における諸事項に関して助言をしていますが、この冒頭部分は私自身の場合にも当てはまります。電話犯罪に対処してきた私自身のやり方に一致しているのです。電話攻撃のため冷静さを失い、私に対して酷い仕打ちをした人々に対して腹を立てていたなら、何等かの暴力行為に至っているはずですし、電話人が篠原であると確信した際には、バットでも持って殴りこみをしたかもしれません。そうではなく、こうした一連の不条理に在って、常に新しい方向へ進み、自らの内面を進化させることが出来ました。詳しい比較分析はしませんが、その進化を特徴付けるのがこの引用句なのです。
さて、本章の表題である « Voe Victis ! »ですが、 もちろん上記の一句から引用したものであり、ラテン語の表現です。 « Voe »とは「願い」を意味し、 « Victis » の « Vict » は英語の « Victory »、すなわち「勝利」を意味し、接尾の « -is » は、「それのみ」を意味します。英語では、« Island » や « Isolation » の接頭語として用いられていますし、Be動詞の三人称単数形の « is » も「それのみ」を指定するものです。 « Voe » は名詞で、 « Victis » が形容詞として作用し、「勝利のみの願い」となります。 「ヴュ・ヴィクティス」と発音しますが、ラテン語ですので、腹の底から気管支を震わせて発声しなければなりません。相撲の行事さんが「待ったなし !」と叫ぶように発声してみて下さい。但し、相撲の「待ったなし !」では、意味が多少異なります。日本では、よく政治家先生などが選挙戦前に、関係者一同と共に、「エイ、エイ、オー」と叫んで、皆でこぶしを宙に突き上げますが、 意味としては、この « Voe Victis ! » と同じになります。但し、状況が違います。持つ「力」(force) を何倍にもする過程に於いて、常に念頭にあるのが « Voe Victis ! » です。ちなみに、この « Force » ですが、映画のスターウォーズ(Star Wars)で別れの挨拶として互いに言い合う、 « May Force be with you ! » の « Force » と同じです。 これはもともと、米語の別れの挨拶である « May God be with you ! » から由来していますが、ボードレールは « God » を抽象化して « Force » として考えています。未来社会では « God » の概念が抽象化されて、代わりに « Force » が使用されるようになったとするのでしょうが、感覚的にはボードレールの « Force » と同じでしょう。従って、 « Voe Victis ! » は、「エイ、エイ、オー」などの掛声ではなく、 努力を重ね、困難に耐えて目標を目指す過程における、己の実在を表象するものなのです。
私にとっての « Voe Victis ! » は、 本来の正しい自分を取り戻すことです。社会における自らの正しい定義を明確にすることです。そのための「バカの壁」となっているのがバカ木連盟です。銃乱射事件に関しては、警察による捜査が進行しているものと信じますが、私が述べたのはあくまで可能性であり、果たして将来的に何等かの報道があるかは不確かです。更には、これらの事件の根源についても述べましたが、それは自らの記憶を頼りに構築したものであり、単なる妄想として片付けられる可能性もあります。しかし、本書物の正しさが証明されなくても、読み物としては面白いものとなっているはずです。さらには、篠原が私の名前で長年に渡り中傷電話を大量に掛けて、私を無き者にしようとしたこと、もしくは、無き者にしようてしていることは確実です。この書物を世間に公開することにより、少なくとも、篠原の攻撃を止めることは出来ると考えています。しかし、前途は多難かもしれません。現時点の2008年5月31日においては、未だ何の報道も通知もありません。序の章でも述べましたが、最悪の場合にはホームレスとなり路上で野垂れ死にするかもしれません。しかし、現状打開のためのこうした努力は、最後の最後まで続けるつもりです。篠原以外にもバカ木連盟を叩き潰さなければなりません。必ず勝ちます。Voe Victis !
「平成の黙示録」に寄せられていたコメント
スポンサーサイト
コメント
コメントの投稿